湯川秀樹博士は5歳で漢文を読んでいた
1949年に日本人として初めてノーベル賞を受賞した湯川秀樹博士の名前を、知らない人はいないのではないでしょうか。
湯川博士は私が通っていた京都の錦林小学校の卒業生で大先輩に当たります。
ちなみに、錦林小学校の3大偉人は湯川秀樹博士)ノーベル賞受賞)・朝永振一郎博士(ノーベル賞受賞)・沢田研二さん(レコード大賞受賞)です。
当時、ジュリー(沢田研二)はスーパースターですからね〜湯川博士は、幼い頃から量子力学に興味を持っていたそうです。
彼の一家はいわゆる学者一家。父、小川琢治は地質学者であり、後年、京都大学の教授に就任します。祖父は長崎師範学校校長、そして兄弟たちも大学教授という家柄です。そのためか、幼い頃から、家の中は図書館のように本だらけだったといいます。
また湯川博士は、まだ5つか6つの頃から中国の漢文を読んでいたとか。
その頃のことが、次のように記されています。
湯川秀樹博士は5歳で漢文を読んでいた
「私はこのころの漢籍の素読を、決してむだだとは思っていない。戦後の日本には、当用漢字というものが生まれた。子供の頭脳の負担を軽くするためには、たしかに有効であり、必要でもあろう。漢字をたくさんおぼえるための労力を他へ向ければ、それだけプラスになるにちがいない。しかし私の場合は、意味も分からずに入っていった漢籍が、大きな収穫をもたらしている。その後、大人の書物をよみ出す時に、文字に対する抵抗が全くなかった。漢字に慣れていたからである。慣れるということは怖ろしいことだ。ただ、祖父の声につれて復唱するだけで、知らずしらず漢字に親しみ、その後の読書を容易にしてくれたのは事実である」
まだ小さく意味も分からずに読んでいた漢文の素読が彼の脳の形成において、大きな違いをもたらしたのではないでしょうか。
ノーベル賞を受賞した湯川博士の功績は1945年に戦争に敗れて自信をなくしていた日本人を元気づけ勉強好きな国民性を後押ししてくれました。
湯川博士は物理化学者、アインシュタイン氏とも親交がありアインシュタインからは、罪のない日本人を原爆で傷つけてしまったことを涙ながらに湯川博士に謝罪したといわれています。
そのアインシュタイン博士を慕って、湯川博士は世界平和のための運動に力を入れるようになりました。
湯川博士の名言にはこんな言葉があります。
「一日、生きることは一歩、進むことでありたい」
「今日の真理が、明日否定されるかもしれない。だからこそ、私どもは明日進むべき道を探し出す」
湯川博士の名言通り、1日生きることで、1歩進めるようにしたいものですね。
本日もお読みいただき、ありがとうございました。参考になれば幸いです!
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